楽習会202303
実施日:令和5年5月25日(木)13:30~15:30
■ 楽習会テーマ:茨城の製塩あれこれ
日立市郷土博物館学芸員の萩原明子氏を講師にお迎えし、日立市の製塩を通して郷土の文化・歴史を学んだ。国内では製塩土器の発掘により縄文時代後期から製塩が行われていたとされるが、今回の楽習会では茨城県統計書、郷土の歴史資料および製塩に関する文献調査をもとに茨城、とりわけ日立市の製塩の歴史や文化遺産についてご講話いただいた。
もともと太平洋に面し、砂浜が続いている多賀郡(現日立市)沿岸は製塩に適し、明治12年「県治一覧表」に記された明治11年の多賀郡製塩高は8,740俵とあり、茨城県内でも有数の製塩地とされていたこと。また当時の製塩の様子を伝える滑川浜の海水を溜める鹹水槽(カンスイソウ)跡、塩釜や塩とり笊(ザル)、製塩に必要な道具の借用書など資料・写真のほか文献の説明があった。明治43年には国の法律で塩の専売権が施工され、同年9月をもって茨城県の製塩が禁止となり、製塩地が瀬戸内沿岸に集約され全国の90%以上が生産されるようになったという。
明治43年生産禁止時の多賀郡沿岸(水木浜から磯原)では日立村(宮田・滑川浜)が生産地であり、とりわけ松原町(安良川・高萩)や北中郷村(磯原)では地元で採れる石炭を利用した直煮法製塩で良質の塩が生産され、生産量は茨城県の98%近くを占めていたという。時代が移り、戦時下の昭和17年5月には労働力不足と輸入減少に対処するため自家用製塩が許可となり、生産者以外の消費用としても製塩されるようになったという。また物資が不足した戦後の混乱期では、多賀工業専門学校〈現茨城大学工学部)の研究活動で鮎川浜に電気製塩所が設けられ、多い時は月産400トンに達したとのこと。その後、電力事情の悪化で製塩所が廃止となったが当時の様子を描いた「鮎川浜電気製塩之図」の紹介に改めて郷土の文化・歴史を身近に感じ、学ぶことができた。昭和24年9月には自給製塩制度が廃止となり、市内の製塩も終了となったが、参加者から跡地と現在の様子と重ね合わせ、感動と驚きの声が囁かれた。
席上質問では地元で育った参加者個人の想い出や製塩にまつわる民話を講師や他の参加者に紹介し会話する場面もあり、改めて食生活に直結した「茨城の製塩あれこれ」について有意義な講演であったことに参加者全員の拍手で萩原講師に謝意を示し、本楽習会を終了した。
参加者 27人(うち会員外2人)
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